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September 23, 2012
アフリカの健康問題。
とにかく肥満が多いのです。日本ではまず見ないようなドーンとでかい腰回りの人、デブ特有の足を引きずるような歩き方をする人が多い。アフリカの話ですが。そんなサイズの服はどこで売ってるの?自作?って聞きたくなる人が多いです。聞かないですけど。
アフリカ域内の地方路線の飛行機とかに乗ると、「この人の隣になるのはイヤだな。」というデブが5人に1人はいる感じ。そもそもエコノミークラスのシートの幅にそのお尻が収まるのか?という人もそんなに珍しくない。
東アフリカ、ウガンダあたりだと太っていることが女性の魅力という感覚もあって、母が娘を無理矢理太らせるのが虐待ではないかと問題になったりしているし。西アフリカ、ガーナでも、女性の鎖骨が見えるのはみすぼらしいという美意識があると聞きました。
日本人と違って太っても顔の表情が脂肪に埋もれてしまうことがないのも、太ることに抵抗が少ない理由かと思ったりしてしまう。
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Global FundやBill and Melinda Gates財団がアフリカで熱心に取り組んでいるのはHIV/AIDS、マラリア、結核等の感染症だったり、母子保健の改善だったりして、たしかにそれはアフリカの人々の生存を脅かす深刻な問題なのですが、実は「非感染性疾患(non-infectious diseases)」とやんわり呼ばれている症状も意外に深刻になってきてます。有り体に言ってしまえば「非感染性疾患」って肥満、高血圧、糖尿病等の生活習慣病、そしてガンのことなんですが。
元々肥満をそんなに悪いこととは思っていないし、日頃の自身の健康管理についての意識も高くない人々が多いので、今後益々非感染性疾患、生活習慣病の問題は深刻化するんじゃないかと心配です。
(余談ですけど、「健康管理についての意識が低い」っていうのも顕著。うちの事務所のアフリカ人の現地人スタッフにしても、それなりの給料をもらっていて、しかも保険に加入すれば保険料の半分は事務所負担もあり得ると言っているのに、保険に入らない。で、病院に行った時には症状が重篤になって即入院、診療費が払えないので何とかしてくれと泣きついてくる。そんなことばっかり。。。)
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アフリカだと「食糧危機」というイメージがありますが、実は食料が本当に足りていないところはそんなに多くないんじゃないかと思いますよ。本当に食料不足だとそれは「飢饉」と呼ばれるわけですが、今だと、ソマリア・ケニア国境辺りとか、南スーダンくらいじゃないかと。大方のところは食料が足りないのではなくて、流通が悪いとか、食料はあるのに人々が買えないとかいう問題だったりする。あるいはトウモロコシの粉と油ばかり食べてて栄養のバランスが悪いとか。
しかしまあ、都市部と郡部の生活の差がものすごいというのもまたアフリカの現実。肥満が多いのは都市部の話で、田舎に行くと全然違った様子が見られる。カロリー自体が足りてないというところは相当田舎に行っても滅多にないので、田舎に行けばみんなやせ細っているなんてことはまずないんですけど、タンパク質が不足してお腹がポコンと出てる子どもたちはいたりする。
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都市部の「非感染性疾患」、要は肥満が多いという問題が顕在化したガーナでは、政府が「運動をしましょう、野菜を食べましょう」キャンペーンをやったことがあります(今でもやってるのかな?)。ところが、田舎に行くと「肉なんて滅多に食べることができません」、「毎日数キロメートルも離れた水場に歩いて水汲みに行ってます」という生活が普通なので、「運動をしましょう、野菜を食べましょう」と言われても「?」です。田舎では衛生的な水、栄養のバランスの方が重要課題なのでした。
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アフリカの保健・医療分野の問題といっても、もちろん感染症対策、母子保健は重要だけれどもそれだけじゃ片付かないこともある、というのはまあ当たり前の話ですね。
June 03, 2012
貧困対策には投資も重要なんだけど。
途上国の貧困対策には国際援助より投資が必要、という主張はそのとおりだと思うのです。国際援助の価値を軽んじるわけではないし、その役割、意義は確かにあるんだけど、貧困から脱し自立するには結局商売、経済が回ることがカギで、そのためには資本がないといけない。だから投資が必要で、国内に十分な資金がない途上国では海外からの投資の誘致が重要な課題になる訳です。現に中国は30年前から、インドは20年前から、ザンビアやモザンビークも4、5年前から市場開放、規制緩和を始めて投資を誘致し、顕著な成果を上げてます。ミャンマーもこれから来そうですよね。
ところが、アフリカの後発途上国の中には、口では「投資が必要」と言いながら、元々汚職や腐敗、政情不安で投資リスクが高いのに、さらに外資系企業を搾取するような規制を導入して、投資のインセンティブを削いでる国も見聞きします。株主の目があり、コンプライアンスもうるさい日本や欧米のマトモな企業がなかなか投資に踏み切れないのも道理なんです。また、そういう国は得てして天然資源が豊かで投資先として潜在的には魅力的なんですけど、そういう後発途上国の指導層は、海外からの投資が経済活動の資本になっていくことよりも先に、自分の懐を豊かにしてくれることを狙っているように見え、そんなところに投資はできっこないなぁと、素人の私でも思います。
で、そこに入って来るのが中国企業。節操なく参入し、相手側とズブズブな取引をして利益を上げているように見える。まあ、ある意味中国企業は大きなリスクを取っているわけで、単純に非難されるべきことではないけれど、日本企業や欧米企業が真似できることではない。で、中国側と途上国の指導層はwin-winの良好な関係を築いていると自慢されまして、確かに彼らに取ってはwin-winでしょう。お互いにうまい汁を吸っているわけで。
というわけで、日本はアフリカ進出で中国に遅れを取っている!と騒がれても、そもそも中国と日本のアフリカにおける立ち位置が違いすぎて、競争にさえならないです。
しかし、理想的な投資環境が出来るのを待っていたらいつまで経っても投資に踏み切れないし、ただ出遅れちゃうだけなので、日本は日本で、相手側に真っ当な取引を迫りながら、公正で持続可能なビジネスの実践を促し続けるしかないんでしょうかね。
どうなんでしょう、商社の方々?
March 25, 2012
国際機関に勤める日本人のジェンダーバランス。
途上国に勤務したり、途上国に出張したりすることが多いのですが、そういう国でお会いする日本人は国連など国際機関に勤務されている方が多いです。そして、そういう仕事をしている人たちには圧倒的に女性が多いんですよね。男性が珍しく見えるくらいに。
国連機関職員への道として知られているJPO試験の合格者も圧倒的に女性が多いそうで。
国際機関で途上国勤務というと、「困っている人を助ける」という仕事が多いので、「母性」と親和的だから女性が多いというのもあるのかもしれませんけど、話を聞いているとどうもそれだけでは説明できません。あるいは、以前よく言われていましたが(今でも聞かれますが)、実は男性の方が臆病で女性の方が肝が据わっていて逞しいからだとか、女性の方が異文化に柔軟に適応できるからだとか、はたまた外国語を学ぶのは女性の方が得意だからだとか、男女の性差の特徴だけにその理由を還元してみても、それだけではないような気がします。
国連機関職員への道として知られているJPO試験の合格者も圧倒的に女性が多いそうで。
国際機関で途上国勤務というと、「困っている人を助ける」という仕事が多いので、「母性」と親和的だから女性が多いというのもあるのかもしれませんけど、話を聞いているとどうもそれだけでは説明できません。あるいは、以前よく言われていましたが(今でも聞かれますが)、実は男性の方が臆病で女性の方が肝が据わっていて逞しいからだとか、女性の方が異文化に柔軟に適応できるからだとか、はたまた外国語を学ぶのは女性の方が得意だからだとか、男女の性差の特徴だけにその理由を還元してみても、それだけではないような気がします。
むしろ女性が多い理由は日本の労働慣行、社会の倫理観にあるように思います。北海道大学大学院教授の山岸俊男氏が、日本社会は実はリスクが大きいという話をよく書いていらっしゃるのですが、それが理由の説明になるんじゃないでしょうか。
山岸先生のお話は、ものすごく要約すると、日本ではまだまだ正規雇用で定職に就くことが「よいこと」と考えられていて、その道を外れると再起が難しく、仕事の仕方や生き方を自由に選ぶことのリスクが高いという趣旨なのですが、これは特に男性の方に覆いかぶさっている世間の「空気」です。
女性には結婚なり出産なりで適当なところで退職し、子育てが落ち着いたらパートタイムで働きに出る、という古典的なイメージがあって、仕事を辞めてもそれで社会から落伍したとかいうようには見られません。ところが男性は、今でこそ違う意見も聞かれるようになってますけど、それでもまだ正規雇用でちゃんとした会社に勤めるのが当たり前という考え方は消えた訳ではありません。結局、経営者かフリーランスか、あるいは最近よく聞くノマドで食っていけるような才能がある人でない限りは、社畜の道を選ぶか、そこから脱落してワーキングプアか引きこもりになっちゃうか、という極端なパターンしかないように見えてしまっています。
国際機関の仕事というのは、基本は有期契約です。ポストに応募して、数ヶ月から数年の仕事を得る。そして契約が終わる頃に次のポストを見つける。そういう契約を繰り返していく働き方です。ジョブ・セキュリティ(職業の安定性)という観点からは不安が多い働き方に見えます。そして、この働き方は日本人男性の今までの働き方の常識からすると、受け入れ難いほどリスクが高いと映っているのではないでしょうか。
日本は、特に男性の場合、余程の才能がある人でもない限り、転職したり起業したり、職業人生の中で何かチャレンジをすると、それが失敗した場合のリスクが高過ぎる社会です。それが当たり前と思っている世界から見ると、2、3年おきに契約満了を迎え失職するような働き方は、リスクが高過ぎてとてもじゃないがやってられないと映るかもしれません。あるいは本人が納得していても、親や家族がいい顔をしない。
典型的だったのが、国際機関の途上国にある事務所で、日本でサラリーマンやってるより相当高い待遇を得て母子保健の専門家として働いている人が、未だに親から「いつまでフラフラしてるのか。いい加減にちゃんとした仕事を見つけて落ち着いたらどうか。」と言われると話していたことでした。契約を繋いでいくような働き方が「ちゃんとした仕事」とは思われていないのです。「ちゃんとした仕事」に就けなくなるリスクが高くなるから、早くそこから足を洗えと言っているのです。
実際には、有期契約の契約期間が満了したら次のポストが見つかるか、あるいは民間や政府機関の仕事に就くか、さらには大学院に行ってみたり、しばらく仕事に就かず主婦・主夫で子育てに専念したり、自分の事業を始めてみたり、まあみんなそれなりになんとかなっているんですけどね。
国際機関で働くという選択は、複線的な生き方を選ぶことになりがちです。しかし、日本人男性は、どこかに就職して勤め続けるという単線的な生き方を標準的とする見方がまだまだ根強くて、国際機関での仕事に挑戦しにくいのでしょう。女性の方がそういう束縛からはより自由だったので、結果、国際機関にいる日本人は女性ばかりということになっているんじゃないかと思うのです。
国の雇用政策は、相変わらず労働者の正規雇用化を促進させる方向で、会社が正規雇用を維持すれば補助金まで出すようなことまでやっています。安定した正規雇用が正しいのだというメッセージを出し続けているようにも見えます(安定しているのかどうかは大いに疑問ですが)。
正規/非正規の区別の意味がなくなり、仕事を辞めても辞めさせられてもそれでたちまち食い詰めるということがなくなり、解雇もしやすいが転職もしやすい、そういう雇用環境が当たり前になる時代がこないと、国際機関で働く日本人男性は増えないんじゃないかなぁと思う次第です。
追記:
選挙で選ばれるような国際機関の上級幹部や機関代表の職についてはまた別の話です。各国政府が候補者を立てて選挙に挑み、日本の場合は候補者に高級官僚、大学教授、財界人等が選ばれることが多く、男性の方が多くなりがちなようです。
January 14, 2012
南部アフリカの物価高。
日本から見ると東南アジアの物価は一般に安くて、年金生活に入ったらクアラルンプールで悠々暮らしましょう、なんていう人もいたりするので、途上国の物価は日本より安いもんだという印象がありますが、そうでもないところがあります、という話。南部アフリカなんですけどね。
世界の生活費の高い都市ランキングでニューヨークや東京、モスクワやムンバイも差し置いて、アンゴラの首都ルアンダが一位になったというニュースとか、聞いたことありません?
高いんですよ、南部アフリカの物価は。
貧困問題が深刻で開発が遅れている南部アフリカ、物流やインフラが不十分で、物資の調達も難しければ、電気や水も安定供給されない。そんなところで健康で文化的な生活を営もうとすると、えらいお金がかかるのです。富裕〜中間層の人々や外国人が住宅を探そうとすると、単身赴任や夫婦2人用程度のところでも、ルアンダでは家賃が月4000ドルを超える水準だと聞きます。それが豪邸かというと、実は断水や雨漏りの絶えない家だったりする。なんてことないビジネスホテルが1泊400ドル、しかも料金前払いでデポジットしなくちゃいけない、とかいう話も聞きます。
日用品もみんな割高。先進国品質の物を持って来るのが大変で、途中でマージンもいっぱいかけるんでしょう、コーンフレークが一箱1000円、みたいな感じらしいです。で、必要ならばそこで買うしかない。他に行けば安い、なんてことはない。
要は貧しく厳しい環境なので、そこで先進国水準のものを調達しようとするとコストが掛かる、かつ、その供給が少ないので競争が働かない、ということで値段が高止まりしてしまう。
だったら、そこに参入して一儲けできそうな気もするんですが、参入しようにもビジネス環境が悪いし、リスクを取って参入するには市場が小さく旨味も少ない。なので、高い物価が放置される、という構造のようです。
中でもアンゴラは石油を産出するので経済が好調、ビジネス客の流入に対しマトモな住宅や物資の供給が十分追いつかないという事態になってとんでもない物価高になったらしい。
他方、南部アフリカで最も発展していて、もはや途上国とは呼べない水準に来ている南アフリカ共和国の物価が周辺国より安いというのも納得です。大手を含むたくさんの事業者がいて競争する大きな消費市場があるし、物流も通信もまともなので国際市場ともリアルタイムにつながっている。南アフリカの物価は日本よりやや安いと感じますよ。
じゃあ、南部アフリカの貧しい多くの人々はどうやって生活しているのか?
切り離されているのです。違うレイヤーで生活している。日常的に現金で買うものは、主食(トウモロコシの粉とか)、食用油、砂糖、あとはせいぜい携帯電話の通話料か、というところで、その他の消費が少ないのです。半分自給自足のような生活で、都市部とは大きく異なる生活です。同じ国の中、同じ国土の上で生活していながら、全然違う生活をしています。「格差」というよりは「断絶」という感じですよ。で、前に書いた「現実はひとつじゃない。」という状況にも陥るわけです。
アフリカ全体でGDPが年率6%成長、10億の人々が暮らすアフリカの時代は近いと言われますけど、この断絶、忘れられた人々をどう包含していくか、なかなか簡単な話じゃないと思いますよ、ほんと。
世界の生活費の高い都市ランキングでニューヨークや東京、モスクワやムンバイも差し置いて、アンゴラの首都ルアンダが一位になったというニュースとか、聞いたことありません?
高いんですよ、南部アフリカの物価は。
貧困問題が深刻で開発が遅れている南部アフリカ、物流やインフラが不十分で、物資の調達も難しければ、電気や水も安定供給されない。そんなところで健康で文化的な生活を営もうとすると、えらいお金がかかるのです。富裕〜中間層の人々や外国人が住宅を探そうとすると、単身赴任や夫婦2人用程度のところでも、ルアンダでは家賃が月4000ドルを超える水準だと聞きます。それが豪邸かというと、実は断水や雨漏りの絶えない家だったりする。なんてことないビジネスホテルが1泊400ドル、しかも料金前払いでデポジットしなくちゃいけない、とかいう話も聞きます。
日用品もみんな割高。先進国品質の物を持って来るのが大変で、途中でマージンもいっぱいかけるんでしょう、コーンフレークが一箱1000円、みたいな感じらしいです。で、必要ならばそこで買うしかない。他に行けば安い、なんてことはない。
要は貧しく厳しい環境なので、そこで先進国水準のものを調達しようとするとコストが掛かる、かつ、その供給が少ないので競争が働かない、ということで値段が高止まりしてしまう。
だったら、そこに参入して一儲けできそうな気もするんですが、参入しようにもビジネス環境が悪いし、リスクを取って参入するには市場が小さく旨味も少ない。なので、高い物価が放置される、という構造のようです。
中でもアンゴラは石油を産出するので経済が好調、ビジネス客の流入に対しマトモな住宅や物資の供給が十分追いつかないという事態になってとんでもない物価高になったらしい。
他方、南部アフリカで最も発展していて、もはや途上国とは呼べない水準に来ている南アフリカ共和国の物価が周辺国より安いというのも納得です。大手を含むたくさんの事業者がいて競争する大きな消費市場があるし、物流も通信もまともなので国際市場ともリアルタイムにつながっている。南アフリカの物価は日本よりやや安いと感じますよ。
じゃあ、南部アフリカの貧しい多くの人々はどうやって生活しているのか?
切り離されているのです。違うレイヤーで生活している。日常的に現金で買うものは、主食(トウモロコシの粉とか)、食用油、砂糖、あとはせいぜい携帯電話の通話料か、というところで、その他の消費が少ないのです。半分自給自足のような生活で、都市部とは大きく異なる生活です。同じ国の中、同じ国土の上で生活していながら、全然違う生活をしています。「格差」というよりは「断絶」という感じですよ。で、前に書いた「現実はひとつじゃない。」という状況にも陥るわけです。
アフリカ全体でGDPが年率6%成長、10億の人々が暮らすアフリカの時代は近いと言われますけど、この断絶、忘れられた人々をどう包含していくか、なかなか簡単な話じゃないと思いますよ、ほんと。
June 19, 2011
政府開発援助=人道支援、ではないよ。
「震災後のこの大変な時に、海外に援助なんかしている場合か。」というご意見はごもっともなんですけど、さりとてODA(政府開発援助)はゼロにできるものではないのです。軍事力を海外展開しないのが国是の日本にとって、ODAは重要な外交ツールなんですよね。
「援助」と言ってはいるものの、「かわいそうだから助けましょう」という人道目的だけではないんです。鎖国しているならいざ知らず、これだけ世界の国々が分ち難くつながってしまっているご時世、日本が食っていくためには「国際社会の安定」は重要な条件で、日本はそれを所与の条件として享受しているだけではいけない規模の国だし、応分の負担をして「国際社会の安定」にコミットしていくことは日本の責務で、またそこから得る利益も大きいと思うのです。
あるいはまた、ODAは「経済開発・市場の開拓」の側面もあります。企業がリスクを取れないところに先にODAが入ってマーケットの地ならしをする。よく取り上げられる例は、たとえば道路建設を支援すれば、車が売れる。地域の交通ネットワークができて人々が豊かになり購買力が上がる。さらに道路建設の技術が移転できれば、自力で経済開発が進み経済成長がもたらされる。そうすれば日本企業にとっても市場が広がるし、生産拠点を開くこともできるかもしれない。・・・と、こんなにトントン拍子に、うまい具合にすべてが進むわけでもないでしょうけど、でもこういう側面があるのも確かです。ODAによるインフラの支援が日本企業の現地進出、現地事業拡大と組み合わせて実施されることもよくあるしね。
ODAの生々しいところでは、日本の「発言力の確保」「対外イメージの向上」、さらに「外国政府の懐柔・支持獲得」という役割もあったりする。表立っては言わないもののやはり援助を受ければ恩義は感じるし、苦しい時に手を差し伸べてくれたとなれば、また別の機会にご恩返しが期待できる。なんかいやらしい感じだし、また恩返しを期待して支援しているわけではないとしても、でも現実としてそうなるわけですよ。たとえば国際社会秩序の維持・形成に重要な役割をもつ国際機関の理事国に日本が立候補したり、あるいは日本人が委員に立候補したときに、日本支持に回ってくれたりする。東日本大震災に際して世界中から支援やお見舞い、救助隊の派遣があったのもこれまでのODAのがあったればこそ、という面もある。普段から日本はよくやってくれている、信頼できる国だというイメージを培っておくことが必要で、ODAはそのための工作費的な役割を持ってます。
アフリカ等の特に脆弱、貧困な国では、ODAはさらに露骨に外交、政治の道具にもなることがあります。日本はそこまで露骨にはやらないですけど、欧米諸国は割と明確にODAと引き換えに被援助国側に改革を要求することがあります。似たような話では、IMFや世界銀行が資金協力の実施と引き換えに財政引き締めや特定の金融政策の実施を求める例がありますけど、そこまでいかなくても、まあ、端的に言ってしまえば「援助するからコレをやるように。」と改革を進めさせるわけです。貧しい国、脆弱な国は往々にして統治機構が弱い上に腐敗していたりするので、ODAと引き換えに改革を進めさせる圧力をかけたりしています。
日本のODAに関しては、対中国でこのところ議論になることが多かったですね。尖閣諸島問題で中国との関係がぎくしゃくしたり、中国がGDPで日本を抜いたりして、対中国ODAも「止めろ」の声が盛り上がりました。たしかに、もはや道路や橋を造ったり、食料を援助したりするODAは止めて当然でしょう。あれだけ自力で発展しているんですからね。でも、ゼロにするのはちょっと待った、と思うんです。単純に中国を非難してdisってれば済むわけではなくて、21世紀の大国である中国とはどうあっても共存共栄を図っていかねばならんわけです。そのためには、中国国内に知日派、親日派が増えてもらわないといけない。多くの中国人に日本を正しく知ってもらわないと。日本の良いところ、日本の足りないところを知る人が増えてもらわないと。ODAには人材育成の事業もいろいろあって、毎年多くの人が途上国から研修、セミナー、留学のために来日していて、たとえば環境関連や社会開発、地方自治などの研修への中国からの参加は、今後も継続していいと思うのです。むしろ、それなりのポジションにいる、あるいは将来そういうポジションにつくレベルの人物の人的交流を増やさないとマズいだろうと思うし、その活動はODA予算で支えられている部分も割と多いんです。
* * *
東日本大震災で国内の復旧・復興事業に巨額の資金需要が発生していて、ODAはなまじ「援助」と呼ばれていることもあり、こんな緊急時に途上国の困っている人に金をばら撒いている場合かというのもごもっともですけど、ODAは日本外交の足腰であって単に「困っている人を助けましょう」というだけのものではないんですよね。日本が国際社会で生き抜くための経費であり、先行投資である面が大きくて、削り過ぎれば国際的信用を失うだけでなく、じりじりと国内の経済にもマイナスの影響をもたらしてしまいます。
本年度のODA予算は約5,700億円。その額については議論もあるだろうと思います。巨額だとも言えるし、国家予算やGDPの規模から比べたら少ないとも言える。すでにピーク時から半分になっているというのをどう見るか、というのもある。しかしとにかく、「震災、津波で大変なんだから止めっちまえ。」という乱暴な議論はよくないです。要はバランス。震災対応も必要だけど、国際社会に対する責務、外交活動も無視できない。「0」か「100」かではない冷静な議論が必要だと思うのです。
「援助」と言ってはいるものの、「かわいそうだから助けましょう」という人道目的だけではないんです。鎖国しているならいざ知らず、これだけ世界の国々が分ち難くつながってしまっているご時世、日本が食っていくためには「国際社会の安定」は重要な条件で、日本はそれを所与の条件として享受しているだけではいけない規模の国だし、応分の負担をして「国際社会の安定」にコミットしていくことは日本の責務で、またそこから得る利益も大きいと思うのです。
あるいはまた、ODAは「経済開発・市場の開拓」の側面もあります。企業がリスクを取れないところに先にODAが入ってマーケットの地ならしをする。よく取り上げられる例は、たとえば道路建設を支援すれば、車が売れる。地域の交通ネットワークができて人々が豊かになり購買力が上がる。さらに道路建設の技術が移転できれば、自力で経済開発が進み経済成長がもたらされる。そうすれば日本企業にとっても市場が広がるし、生産拠点を開くこともできるかもしれない。・・・と、こんなにトントン拍子に、うまい具合にすべてが進むわけでもないでしょうけど、でもこういう側面があるのも確かです。ODAによるインフラの支援が日本企業の現地進出、現地事業拡大と組み合わせて実施されることもよくあるしね。
ODAの生々しいところでは、日本の「発言力の確保」「対外イメージの向上」、さらに「外国政府の懐柔・支持獲得」という役割もあったりする。表立っては言わないもののやはり援助を受ければ恩義は感じるし、苦しい時に手を差し伸べてくれたとなれば、また別の機会にご恩返しが期待できる。なんかいやらしい感じだし、また恩返しを期待して支援しているわけではないとしても、でも現実としてそうなるわけですよ。たとえば国際社会秩序の維持・形成に重要な役割をもつ国際機関の理事国に日本が立候補したり、あるいは日本人が委員に立候補したときに、日本支持に回ってくれたりする。東日本大震災に際して世界中から支援やお見舞い、救助隊の派遣があったのもこれまでのODAのがあったればこそ、という面もある。普段から日本はよくやってくれている、信頼できる国だというイメージを培っておくことが必要で、ODAはそのための工作費的な役割を持ってます。
アフリカ等の特に脆弱、貧困な国では、ODAはさらに露骨に外交、政治の道具にもなることがあります。日本はそこまで露骨にはやらないですけど、欧米諸国は割と明確にODAと引き換えに被援助国側に改革を要求することがあります。似たような話では、IMFや世界銀行が資金協力の実施と引き換えに財政引き締めや特定の金融政策の実施を求める例がありますけど、そこまでいかなくても、まあ、端的に言ってしまえば「援助するからコレをやるように。」と改革を進めさせるわけです。貧しい国、脆弱な国は往々にして統治機構が弱い上に腐敗していたりするので、ODAと引き換えに改革を進めさせる圧力をかけたりしています。
日本のODAに関しては、対中国でこのところ議論になることが多かったですね。尖閣諸島問題で中国との関係がぎくしゃくしたり、中国がGDPで日本を抜いたりして、対中国ODAも「止めろ」の声が盛り上がりました。たしかに、もはや道路や橋を造ったり、食料を援助したりするODAは止めて当然でしょう。あれだけ自力で発展しているんですからね。でも、ゼロにするのはちょっと待った、と思うんです。単純に中国を非難してdisってれば済むわけではなくて、21世紀の大国である中国とはどうあっても共存共栄を図っていかねばならんわけです。そのためには、中国国内に知日派、親日派が増えてもらわないといけない。多くの中国人に日本を正しく知ってもらわないと。日本の良いところ、日本の足りないところを知る人が増えてもらわないと。ODAには人材育成の事業もいろいろあって、毎年多くの人が途上国から研修、セミナー、留学のために来日していて、たとえば環境関連や社会開発、地方自治などの研修への中国からの参加は、今後も継続していいと思うのです。むしろ、それなりのポジションにいる、あるいは将来そういうポジションにつくレベルの人物の人的交流を増やさないとマズいだろうと思うし、その活動はODA予算で支えられている部分も割と多いんです。
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東日本大震災で国内の復旧・復興事業に巨額の資金需要が発生していて、ODAはなまじ「援助」と呼ばれていることもあり、こんな緊急時に途上国の困っている人に金をばら撒いている場合かというのもごもっともですけど、ODAは日本外交の足腰であって単に「困っている人を助けましょう」というだけのものではないんですよね。日本が国際社会で生き抜くための経費であり、先行投資である面が大きくて、削り過ぎれば国際的信用を失うだけでなく、じりじりと国内の経済にもマイナスの影響をもたらしてしまいます。
本年度のODA予算は約5,700億円。その額については議論もあるだろうと思います。巨額だとも言えるし、国家予算やGDPの規模から比べたら少ないとも言える。すでにピーク時から半分になっているというのをどう見るか、というのもある。しかしとにかく、「震災、津波で大変なんだから止めっちまえ。」という乱暴な議論はよくないです。要はバランス。震災対応も必要だけど、国際社会に対する責務、外交活動も無視できない。「0」か「100」かではない冷静な議論が必要だと思うのです。
June 05, 2011
アフリカ貧困国の特権階級。

今、30代後半以上の人たちのアフリカに対するイメージって、1980年代のエチオピア飢饉のイメージからあまり変わってないんじゃないかと思います。乾いた大地にやせ細った黒い人々が座り込んでいる姿が延々続く景色。2000年代に入っても、スーダン・ダルフールで似たような状況が再現されたし、相変わらず「黒人の」「暑く」「貧しい」大陸というイメージは変わっていないんじゃないかなと。
アフリカには50以上の国があり、一口に「アフリカは」なんて括って話すことは難しいです。北アフリカはアフリカといっても文化的には中東・アラブ圏だし、モーリシャスとかセイシェルとか、一応アフリカだけど島国でほとんど先進国並みという国もある。南アフリカは気候的には地中海的だし、経済は中進国。エチオピアにしても、首都アジスアベバはそれなりに開発が進んだ住みやすい都市だと聞いています(標高高いので空気が若干薄いらしいけど。)。
そんな感じなので、アフリカの印象をひとまとめに語ることはできないですけど、でも、それでも、やはり開発の遅れた、貧しい、破綻した国家が多いのは事実。特にサブサハラ、ブラックアフリカと呼ばれるサハラ沙漠以南のアフリカや、西アフリカにはその傾向が顕著です。
ところが、たしかに貧しいんですけれど、共通しているのはたいていどこの国にも特権階級がいて、破格に豪勢な生活をしているんですよね。豪邸に住み、高級車を何台も所有し、使用人を大勢使って生活している人たちがいる。で、そういう人たちが陰に陽に政治に影響力を行使し、またある時は自身が政治家であったりするんです。
粗末な社会インフラの中で非常に貧しい生活を強いられている多くの人々とほんの一握りの特権階級、というのは多くのアフリカの貧困国に共通した構造であるように見えます。そしてこの特権階級の人々は、自国の発展にはあまり興味を持ちません。自国よりも、自分の一族の発展が第一です。そして、対外的には「自国の発展のため」という説明をしながら、実際には「自分の一族のため」の支援を得ようとします。彼らの視界の中に、自国の国民の姿はほとんど存在しないような気さえしますよ。
「特権階級と多くの貧しい国民」という構造は、「封建領主と領民」の関係に似ているところがありますが、ひとつ違うところがあります。封建領主は領民から年貢や人頭税を取り立て、労役を課したのですが、アフリカの特権階級は国民から直接は搾取しません。彼らの収益源は、国営・公営企業の収益や鉱山開発等のロイヤリティ収入、独占事業や許認可事業による収入、あるいは関税収入や海外からの開発援助に関するものが多く、本来ならば国民が手にし得たはず富をかすめているので間接的には搾取していることには違いないのですが、国民の財布から直接抜き取るようにはなってないのです。現に、このような貧しいアフリカ諸国の国民負担率((租税負担+社会保障負担)/国民所得)は10%〜20%程度で、多くの先進国の40%〜60%という水準を大きく下回ります。この国民負担率の低さは、特権階級(≒為政者)対しては、国民の負担によって国家が運営されているという意識を希薄にさせるように働くと考えられます。納税者に対する説明責任というものをあまり気にする必要がないので、国民のため、国民の付託に応えるための政策を打つという意識も希薄になり、「視界の中に国民の姿がほとんど存在しない」という状況になるのも当然という構造ですよ。
だから、そういう特権階級の人たちは、社会の民主化が進み経済が自由化されると自分たちの特権・地位が危ないので、たとえそれが自国の発展を妨げ国民が貧窮することになる政策であっても、それを支持することさえ、ままあります。表向きは経済発展、開発が重要と主張し、自分が利権を持つ企業が利益を拡大できる場合は積極的に推進するのですが、自身の利益に反することは、たとえ経済発展に必須な政策であっても、「国家主権の問題」というようなもっともらしい理由をつけて、厚顔無恥にも反対するのです。
日本だったら自民党に聞いても共産党に聞いても「日本を発展させたい」という根本では一致すると思いますけど、こういう貧しいアフリカの国には、無自覚的にしても本音のところで「今のままでいい、発展させない方がいい」と思っている特権階級、支配階級がいる国が多いんです。
汚職とか腐敗とかいうと贈収賄を思い浮かべますが、贈収賄くらいならかわいいもので、国のシステム全体が搾取の構造になっている「腐敗」なんですよね。アフリカが発展しないことを書いた本や論文はいくらでもありますし、私がここで書いているようなこともまあ簡単に言ってしまえば「利権の構造」ということで特に目新しいことではないんでしょうけど、アフリカの途上国に3年以上住んでみて、そういう構造が実際に存在していることに気付いて、残念な気持ちになるのです。
January 23, 2011
UNICEF職員はタダ働きじゃ務まりません。
UNICEFの国際スタッフ(日本ユニセフ協会の職員じゃなくて、途上国のUNICEF現地事務所で働く人)の日本人の友人が話していたことなんですけど、日本帰国中に「国連機関に勤めています。ユニセフです。」なんていう話をしていると、「ユニセフの職員が給料をもらっている!」と不満げな反応をする人が時々いるそうです。
そりゃ、給料もらいますよ。援助のプロですから、彼らは。片手間に道楽でやってるわけじゃなくて、高い専門性を持ったプロの仕事としてやってるわけですから。生活環境の厳しいところでの仕事が多いし、危険もあるし、それなりの待遇が当然必要です。
「ユニセフのスタッフが給料をもらっている」と訝る人々にとって、ユニセフとは慈善団体、ライオンズクラブとかロータリークラブとかと同じようなものと思われているんでしょうね。途上国の貧しい人々のところに手弁当で出かけて行って援助を差し伸べる、純真な心の人たちの集団、くらいのイメージなんでしょうか。
* * *
開発協力、国際援助の分野で、日本に力のある大手のNGOがなかなか育たないのは、この「タダ働きであるべきだ」という信仰が影響している部分も大きいように思います。国際NGOに幾ばくかの寄付をして、そのNGOがカンボジアに建てる学校の建設費になると思っていたら、そのNGOのスタッフの給料になっていた、といって怒る人がいる。
そしたら、誰がその事業を運営するんでしょう?
「お金持ちが、ボランティア精神を発揮してやればいい。若い人がインターンの一環でやればいい。」
たしかにそれで賄える部分はあるかもしれませんが、それじゃいつまでたってもアマチュア仕事だし、事業の拡大の可能性も、それどころか継続の可能性も小さい。結局、一時の自己満足に過ぎない事業や、とんちんかんな事業をやる小規模なNGOばかりになって、途上国の社会開発に自らコミットするような大手のNGOがなかなか育たない。小粒でもすばらしい仕事をしているNGOが数多くあるのも知っていますが、往々にして専従スタッフは極めて少数で、しかも薄給です。
日本人に多い「サービスはタダ」という感覚の延長線上なのかもしれません。「ものづくり」信仰が強いせいか、モノではない目に見えないサービスにお金を払う感覚が希薄ですよね。途上国に建てる学校の資材にお金を払うのはいいけれど、その建設のコーディネート作業にはお金を払いたくない。そんな空気がある。
小さなNGOや、普通に暮らす個々人の善意を軽んじるつもりはないですが、しかし、開発協力、途上国支援は「道楽」で済むものではなく、「仕事」として取り組まねばならない水準のものです。「善意の種をひとつ撒けば、大きく花が咲いて世界が平和に」というほど世界は甘くない。
世界が多くの人々にとってもっと住みやすくなるにはどうしたらいいか、という課題に取り組むことを仕事としているプロフェッショナルが世界には大勢いて、彼らの仕事がまわりまわって途上国に住んでいない人々の暮らしやすさにもつながってくるんですけど、「ユニセフの人が給料をもらっているなんて!」と文句を言う人たちにはそこまで想像力が及ばないんでしょうね。
まあ、街で外国人を見かける時か、買い物のときに「Made in ナントカ」って書いてるのを見るときくらいしか世界を意識しなくても楽しく生きて行ける日本にいれば、それも致し方ないか。
そりゃ、給料もらいますよ。援助のプロですから、彼らは。片手間に道楽でやってるわけじゃなくて、高い専門性を持ったプロの仕事としてやってるわけですから。生活環境の厳しいところでの仕事が多いし、危険もあるし、それなりの待遇が当然必要です。
「ユニセフのスタッフが給料をもらっている」と訝る人々にとって、ユニセフとは慈善団体、ライオンズクラブとかロータリークラブとかと同じようなものと思われているんでしょうね。途上国の貧しい人々のところに手弁当で出かけて行って援助を差し伸べる、純真な心の人たちの集団、くらいのイメージなんでしょうか。
* * *
開発協力、国際援助の分野で、日本に力のある大手のNGOがなかなか育たないのは、この「タダ働きであるべきだ」という信仰が影響している部分も大きいように思います。国際NGOに幾ばくかの寄付をして、そのNGOがカンボジアに建てる学校の建設費になると思っていたら、そのNGOのスタッフの給料になっていた、といって怒る人がいる。
そしたら、誰がその事業を運営するんでしょう?
「お金持ちが、ボランティア精神を発揮してやればいい。若い人がインターンの一環でやればいい。」
たしかにそれで賄える部分はあるかもしれませんが、それじゃいつまでたってもアマチュア仕事だし、事業の拡大の可能性も、それどころか継続の可能性も小さい。結局、一時の自己満足に過ぎない事業や、とんちんかんな事業をやる小規模なNGOばかりになって、途上国の社会開発に自らコミットするような大手のNGOがなかなか育たない。小粒でもすばらしい仕事をしているNGOが数多くあるのも知っていますが、往々にして専従スタッフは極めて少数で、しかも薄給です。
日本人に多い「サービスはタダ」という感覚の延長線上なのかもしれません。「ものづくり」信仰が強いせいか、モノではない目に見えないサービスにお金を払う感覚が希薄ですよね。途上国に建てる学校の資材にお金を払うのはいいけれど、その建設のコーディネート作業にはお金を払いたくない。そんな空気がある。
小さなNGOや、普通に暮らす個々人の善意を軽んじるつもりはないですが、しかし、開発協力、途上国支援は「道楽」で済むものではなく、「仕事」として取り組まねばならない水準のものです。「善意の種をひとつ撒けば、大きく花が咲いて世界が平和に」というほど世界は甘くない。
世界が多くの人々にとってもっと住みやすくなるにはどうしたらいいか、という課題に取り組むことを仕事としているプロフェッショナルが世界には大勢いて、彼らの仕事がまわりまわって途上国に住んでいない人々の暮らしやすさにもつながってくるんですけど、「ユニセフの人が給料をもらっているなんて!」と文句を言う人たちにはそこまで想像力が及ばないんでしょうね。
まあ、街で外国人を見かける時か、買い物のときに「Made in ナントカ」って書いてるのを見るときくらいしか世界を意識しなくても楽しく生きて行ける日本にいれば、それも致し方ないか。
January 15, 2011
国際協力の仕事のキャリアパス。
前回のエントリーで、国際協力の仕事は新卒で就職するようなところにはあまり落ちてないもんだよ、なんらかの専門性を持ったプロが求められているんだよ、とは書いたものの、それって今大学生くらいの人が読んだら、かなりハードルが高く聞こえるっていうか、「自分じゃダメなんだ・・・。」と思わせる結果になってるかもしれない、と心配になりました。やる気を挫いしてしまっては申し訳ないっていうか、それは本意ではないので、それじゃ今、国際協力の現場で働いている人たちはどんなキャリアパスだったんだろうと、いろいろ思い出してみた。
当然、「新卒で就職して国際協力の仕事をやっています。」というパターンは、運良く国際協力機構(JICA)から内定がもらえた人の場合くらいしか聞いたことがなくて、大抵の人は「国際協力の仕事」を指向しつつ、いくつもの場所を渡り歩いて来ているように見えます。あくまで個人的な観察に過ぎないんですけど、そう見える。
大卒の22歳か23歳くらいからの10年くらいを、国内/海外のNGO、青年海外協力隊、協力隊調整員、国内/海外の大学院、民間企業、公務員(学校教師など)、医療関係職、自営業、JPO派遣制度、日本大使館の専門調査員/派遣員、JICAのジュニア専門員/長期研修員/特別嘱託、UNV・・・、というようなところを、だいたい1年〜2年程度づつで渡り歩いて、30歳もかなり過ぎてからそれなりに国際協力の業界で食えるようになった、という人が多いんじゃないでしょうかね。
で、大卒からの10年くらいの間にそれなりの経験を積んで、人に説明できるくらいの自分の得意分野ができれば、その後の仕事はだんだん安定してくるようです。
たとえば、国連機関のスタッフは終身雇用ということはほとんど無理で、多くは1年、2年の契約で仕事をしてらっしゃるようなんですが、ちゃんとキャリアを積んできた人であれば、契約が切れてもまた次の契約、次のポストの話が舞い込んで来るようになるみたいです。
あるいは、国際協力の仕事を専門とする人々が集まる開発コンサルタント会社で新卒採用をしているところは少ないみたいなんですけど、10年くらい経験を積んで国際協力の仕事の即戦力とみなされるよにうになれば、そういう会社に就職するという道も出てくる。国際協力機構本体は新卒採用中心ですけど、その周辺の関連企業は国際協力の経験者採用しかやってないようなところも多いようで、そういう会社に入る、というのもあるかもしれません。
10年かそれくらい、経験を積みつつ食いつなぐことができれば、それなりに方向性が見えてくる。そういう感じじゃないかと観察してます。
もちろん、ここに挙げた以外のポストもあるし、国際協力の業界にいる人の経歴は本当にさまざまですよ。「新卒でこの会社に就職して、今に至ります。」というような単線のキャリアの人が少ない業界です。
不況だ、就職氷河期だと喧しい昨今、「経験を積みながら食いつなぐ」というのはそれなりにタフで、綱渡りな局面もあるだろうと想像しますけど、就職、というか「就社」して会社員になるというのと一味違う働き方の世界としても、「国際協力の仕事」は面白いんじゃないでしょうかね。
(以上は、私の個人的見解です。この記事を読んで実践したけどうまく行かなくて、実家に引きこもり親の年金のおこぼれで生活する羽目になりました、と苦情を持ち込まれても知りませんよ。この記事が参考になれば、とは思ってますけど、自分の道は、結局自分で拓くしかないんですよね。)
当然、「新卒で就職して国際協力の仕事をやっています。」というパターンは、運良く国際協力機構(JICA)から内定がもらえた人の場合くらいしか聞いたことがなくて、大抵の人は「国際協力の仕事」を指向しつつ、いくつもの場所を渡り歩いて来ているように見えます。あくまで個人的な観察に過ぎないんですけど、そう見える。
大卒の22歳か23歳くらいからの10年くらいを、国内/海外のNGO、青年海外協力隊、協力隊調整員、国内/海外の大学院、民間企業、公務員(学校教師など)、医療関係職、自営業、JPO派遣制度、日本大使館の専門調査員/派遣員、JICAのジュニア専門員/長期研修員/特別嘱託、UNV・・・、というようなところを、だいたい1年〜2年程度づつで渡り歩いて、30歳もかなり過ぎてからそれなりに国際協力の業界で食えるようになった、という人が多いんじゃないでしょうかね。
で、大卒からの10年くらいの間にそれなりの経験を積んで、人に説明できるくらいの自分の得意分野ができれば、その後の仕事はだんだん安定してくるようです。
たとえば、国連機関のスタッフは終身雇用ということはほとんど無理で、多くは1年、2年の契約で仕事をしてらっしゃるようなんですが、ちゃんとキャリアを積んできた人であれば、契約が切れてもまた次の契約、次のポストの話が舞い込んで来るようになるみたいです。
あるいは、国際協力の仕事を専門とする人々が集まる開発コンサルタント会社で新卒採用をしているところは少ないみたいなんですけど、10年くらい経験を積んで国際協力の仕事の即戦力とみなされるよにうになれば、そういう会社に就職するという道も出てくる。国際協力機構本体は新卒採用中心ですけど、その周辺の関連企業は国際協力の経験者採用しかやってないようなところも多いようで、そういう会社に入る、というのもあるかもしれません。
10年かそれくらい、経験を積みつつ食いつなぐことができれば、それなりに方向性が見えてくる。そういう感じじゃないかと観察してます。
もちろん、ここに挙げた以外のポストもあるし、国際協力の業界にいる人の経歴は本当にさまざまですよ。「新卒でこの会社に就職して、今に至ります。」というような単線のキャリアの人が少ない業界です。
不況だ、就職氷河期だと喧しい昨今、「経験を積みながら食いつなぐ」というのはそれなりにタフで、綱渡りな局面もあるだろうと想像しますけど、就職、というか「就社」して会社員になるというのと一味違う働き方の世界としても、「国際協力の仕事」は面白いんじゃないでしょうかね。
(以上は、私の個人的見解です。この記事を読んで実践したけどうまく行かなくて、実家に引きこもり親の年金のおこぼれで生活する羽目になりました、と苦情を持ち込まれても知りませんよ。この記事が参考になれば、とは思ってますけど、自分の道は、結局自分で拓くしかないんですよね。)
January 06, 2011
国際協力の仕事を目指す人へ。
国際協力の仕事をしたい、という若い人の話を聞くこともそれなりにあったりしまして、そういう人たちに説教を垂れる、というようなことはやりたくはないんですけど、でも、毎回同じような話をしてばかりいるので、思うところをちょっと書き残しておこうと思います。
まずね、大学なり大学院なりを卒業してすぐ「国際協力の仕事」を得るのは、そう簡単じゃないですよ。日本全国の大学に、国際関係学科、開発経済学科、国際教養学科とかいう学科はたくさんあって、さらには政治学や経済学の方面から途上国開発の業界に興味を持ってくる人もいる。毎年、「国際協力の仕事ができたらなぁ」という卒業生は、きっと数千人はいるんです。多く見積もれば万の単位に乗るかもしれない。
だけど、みなさんが真っ先に思いつく、例えば独立行政法人国際協力機構(JICA)の新卒採用数は毎年30人とか40人とか。その他に将来にわたってちゃんと生計を立てられる「国際協力の仕事」は、新卒の人々に対してはほとんど門戸は開かれていないですよ。あとは、薄給で若い間しか勤まらないNGOや、原則2年の青年海外協力隊とか。就職希望者数に対して、圧倒的に枠が小さいです。
じゃあ、その他の「国際協力の仕事」ってどこにあるのか。
それは、開発コンサルタントであり、国連など国際機関の職員であり、国際NGOの職員であり、各種の国際協力専門家の稼業です。そこで求められているのは専門性を持ったプロなのです。「途上国の困窮している人を救う仕事がしたいのです。」という清い心だけでは勤まらない仕事ばかりなのです。逆に言えば、プロであれば「国際協力の仕事」を得るチャンスは広がる。
いい例なのは、青年海外協力隊の採用状況ですよ。協力隊はいろんな職種が募集されているんですけど、「理数科教師」「農業」「情報技術」といったような職種は途上国側から要請が多いのに応募数が少なくて、もしあなたが応募すればきっとかなりの確率で採用されますよ。他方、「村落開発普及」「青少年活動」とか、一見専門性がなくても気合いや日本人としての常識で勤まりそうに見える職種は大変な競争倍率になっています。で、実際に採用されている人には、イギリスに留学して開発学を勉強してきましたとか、過剰に優れた経歴の人がいたりするんです。
あるいは、特定の専門技術を持っていれば、英語がそこまで得意じゃなくても「途上国の人々を救う仕事をしてほしい」というオファーは向こうからやってくる。医者や看護士などは最たる例ですが、そこまででなくても、例えば送電網設計、上水道漏水対策、システムエンジニア、灌漑農業、HIV/AIDS対策、廃棄物処理、道路設計、教師・・・、なんらかの「手に職」があれば、「国際協力の仕事」がめぐってくることは多いです。手を挙げれば、ぜひ行ってくれ、となることも多い。だから、「国際協力の仕事」を目指すにしても、まずなんらかの専門性を身につけることの方が先だと思うんです。急がば回れ、の格言どおりですよ。「国際協力の仕事」の内定もらうには、運もよくなくちゃ受からないような国際協力機構や、若者の善意を買い叩いて善意を押し売りしているNGOを目指すのもいいけれど、もっと広い視野で仕事探しをした方がいいと思うんですよね。
そして、実は、なんだかんだ言っても途上国の人々の困窮を救うのは、経済、もっといえばビジネスであるというのが現実だったりします。「国際協力」を看板に掲げている人たちの活動よりも、そこに工場が進出してきたり、新しい商売が生まれたりした方が、現地の人々の生活に余程プラスだったりするんです。国際協力だといって援助をするよりも、金儲けを覚えてもらうことの方が、経済開発には大事だったりする。
だから、「国際協力の仕事」を目指す人には、純粋に「国際協力」を掲げているところばかりを探すのではなく、民間企業の活動だって途上国の人々の生活向上にものすごく貢献している、ということを忘れないでほしいなと思うんです。そして、なんらかの専門性を持つことを目指すことをお勧めしたい。肩肘張って「国際協力」と言わなくても、あなたの日々の仕事が途上国の困窮を緩和することに役立っていることも多いだろうと思ったりするのです。
* * *
繰り返しですが、国際協力の現場で求めれらているのは、なにかの「プロ」です。
国際協力機構や国連機関は「途上国の困窮している人を救う仕事がしたいのです。」という気持ちが純粋であれば純粋であるほど、心が折れそうになる官僚的な職場だとも聞きますし、「国際協力の仕事」がしたいとは結局どういう仕事がしたいのか、冷静に落ち着いて考えてみられるとよいと思いますよ。要は、困窮している国の人々の暮らしに役立つ仕事、であり、それは自分の専門性をもって貢献する、ということで実現されるのではないでしょうかね。
少なくとも、「国際協力の仕事」は、大学の3年から就活をすれば内定をもらえる、というところにはあまり落ちてないと思いますよ。
まずね、大学なり大学院なりを卒業してすぐ「国際協力の仕事」を得るのは、そう簡単じゃないですよ。日本全国の大学に、国際関係学科、開発経済学科、国際教養学科とかいう学科はたくさんあって、さらには政治学や経済学の方面から途上国開発の業界に興味を持ってくる人もいる。毎年、「国際協力の仕事ができたらなぁ」という卒業生は、きっと数千人はいるんです。多く見積もれば万の単位に乗るかもしれない。
だけど、みなさんが真っ先に思いつく、例えば独立行政法人国際協力機構(JICA)の新卒採用数は毎年30人とか40人とか。その他に将来にわたってちゃんと生計を立てられる「国際協力の仕事」は、新卒の人々に対してはほとんど門戸は開かれていないですよ。あとは、薄給で若い間しか勤まらないNGOや、原則2年の青年海外協力隊とか。就職希望者数に対して、圧倒的に枠が小さいです。
じゃあ、その他の「国際協力の仕事」ってどこにあるのか。
それは、開発コンサルタントであり、国連など国際機関の職員であり、国際NGOの職員であり、各種の国際協力専門家の稼業です。そこで求められているのは専門性を持ったプロなのです。「途上国の困窮している人を救う仕事がしたいのです。」という清い心だけでは勤まらない仕事ばかりなのです。逆に言えば、プロであれば「国際協力の仕事」を得るチャンスは広がる。
いい例なのは、青年海外協力隊の採用状況ですよ。協力隊はいろんな職種が募集されているんですけど、「理数科教師」「農業」「情報技術」といったような職種は途上国側から要請が多いのに応募数が少なくて、もしあなたが応募すればきっとかなりの確率で採用されますよ。他方、「村落開発普及」「青少年活動」とか、一見専門性がなくても気合いや日本人としての常識で勤まりそうに見える職種は大変な競争倍率になっています。で、実際に採用されている人には、イギリスに留学して開発学を勉強してきましたとか、過剰に優れた経歴の人がいたりするんです。
あるいは、特定の専門技術を持っていれば、英語がそこまで得意じゃなくても「途上国の人々を救う仕事をしてほしい」というオファーは向こうからやってくる。医者や看護士などは最たる例ですが、そこまででなくても、例えば送電網設計、上水道漏水対策、システムエンジニア、灌漑農業、HIV/AIDS対策、廃棄物処理、道路設計、教師・・・、なんらかの「手に職」があれば、「国際協力の仕事」がめぐってくることは多いです。手を挙げれば、ぜひ行ってくれ、となることも多い。だから、「国際協力の仕事」を目指すにしても、まずなんらかの専門性を身につけることの方が先だと思うんです。急がば回れ、の格言どおりですよ。「国際協力の仕事」の内定もらうには、運もよくなくちゃ受からないような国際協力機構や、若者の善意を買い叩いて善意を押し売りしているNGOを目指すのもいいけれど、もっと広い視野で仕事探しをした方がいいと思うんですよね。
そして、実は、なんだかんだ言っても途上国の人々の困窮を救うのは、経済、もっといえばビジネスであるというのが現実だったりします。「国際協力」を看板に掲げている人たちの活動よりも、そこに工場が進出してきたり、新しい商売が生まれたりした方が、現地の人々の生活に余程プラスだったりするんです。国際協力だといって援助をするよりも、金儲けを覚えてもらうことの方が、経済開発には大事だったりする。
だから、「国際協力の仕事」を目指す人には、純粋に「国際協力」を掲げているところばかりを探すのではなく、民間企業の活動だって途上国の人々の生活向上にものすごく貢献している、ということを忘れないでほしいなと思うんです。そして、なんらかの専門性を持つことを目指すことをお勧めしたい。肩肘張って「国際協力」と言わなくても、あなたの日々の仕事が途上国の困窮を緩和することに役立っていることも多いだろうと思ったりするのです。
* * *
繰り返しですが、国際協力の現場で求めれらているのは、なにかの「プロ」です。
国際協力機構や国連機関は「途上国の困窮している人を救う仕事がしたいのです。」という気持ちが純粋であれば純粋であるほど、心が折れそうになる官僚的な職場だとも聞きますし、「国際協力の仕事」がしたいとは結局どういう仕事がしたいのか、冷静に落ち着いて考えてみられるとよいと思いますよ。要は、困窮している国の人々の暮らしに役立つ仕事、であり、それは自分の専門性をもって貢献する、ということで実現されるのではないでしょうかね。
少なくとも、「国際協力の仕事」は、大学の3年から就活をすれば内定をもらえる、というところにはあまり落ちてないと思いますよ。
November 28, 2010
辺境の国・日本の、押し付けない国際協力。
原研哉氏の「デザインのデザイン」という本を読んでいたんですけど、この部分が非常に印象に残ったんです。ちょっと長いですが、引用してみます。
「東京は好奇心の旺盛な街だ。世界のどの都市よりも他の文化から情報を集めることに熱心である。そしてそれらの情報をていねいに咀嚼して、世界に起こっていることをリアルに理解しようと勤勉な知性を働かせている都市でもある。自分たちの立っている場所が世界の中心ではない、そしてそもそも世界に中心などないのだという意識がその背後には働いているような気がする。だから自分たちの価値観で全てを推し量るのではなく、他国の文化の文脈に推理を働かせつつそれを理解しようとする。」(p.155)
もうひとつ、内田樹先生の「日本辺境論」。これもちょっと引いてみます。
「日本という国は建国の理念があって国が作られているのではありません。まずよその国がある。よその国との関係で自国の相対的位置がさだまる。よその国が示すヴィジョンを参照して、自分のヴィジョンを考える。」(p.38)
ちなみに、内田先生は日本人がこんな「辺境性」を持っていることを別に否定的に書いてらっしゃるわけじゃないです。ただ「そういうものだ」と書いておられる。また、この本では、梅棹忠夫氏の「文明の生態史観」を引用していて、それは以下のとおりです。
「日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは、現に保有している文化水準の客観的評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している。一種のかげのようなものだ。ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。」
* * *
これね、海外で生活しているからかもしれないですけど、実感としてこのとおりなんですよね。有史以来、日本は中華であったことはない。常に辺境であり、辺境としての国民性をもって強かに生き残ってきたんですから、自ら世界に範を示すことが生来的には身に付いていない。別にいいとか悪いとかいう話じゃなくて、そう。
ミクロの現場では、「べき」論を以て雄弁に語る欧米人を前に、気後れすることも多いです。しかし、私の英語力の問題もありますけど、英語力が十分だったとしても、ああいう風には語らない、語れないことが多いなと思うこともしばしばなんです。常に、周りの考えを見て、自分の考えを検証している自分がいます。
* * *
日本の国際協力事業の現場に携わったことがあるんですが(今も携わっていますけど)、日本の国際協力の特徴に「要請主義」というのがあります。原則的に、相手国側から「要請」されたものに対して応えるという方針です。こちらから押し付けない。あくまで相手国側の考えを尊重して、「うちの国の開発にはこれが必要なので協力してください」と要請されたものについて協力を検討するという原則があります。
もちろん、「おたくの国の発展にはまずこういうところから手を付けるべきなんじゃないですか」と日本側から提案して、最終的に相手側に要請させるということも少なくないので、いつも「ご用聞き」だけをやっているわけじゃないですが、原則は「要請主義」です。また、これは「ownership」の強調という日本の支援の特徴も同時に説明しています。すなわち、日本はあくまで「支援」「協力」はするけれども、事業の主体はあなたの国なのですよ、プロジェクトはあなたの国が実施したいとして日本に支援を要請しているから日本は支援するだけですよ、という「当事者感覚」を強調することにつながってます。相手国側が自分で考えて必要だと思って要請してくる、その事業は相手国のものです。日本はそれを支援する。
押し付けないのです。相手国の言い分を聞く。相談に乗る。その上で助言する。開発途上国には自国の開発課題について取り組む政策や事業計画を策定する能力も覚束ないところも多くて、まともな要請を出すこともままならないという国も多いので、まず相談に乗る、ということも少なくないです。結果として、事業開始までにやたらに時間がかかることも少なくないですけど、事業計画の形成段階から、相談に乗って議論を導くところから援助が始まっていると見ると、時間がかかるのも仕方がないなという面もあるんですよね。
で、なぜいきなり日本の国際協力の話をしているかというと、この日本の国際協力の特色も、自分たちの価値観を絶対のものとしない、どこか別のところにヴィジョンがあって他所様のヴィジョンに照らして自分のアイデンティティを確認する、という日本人の特色が非常によく反映されているシステムに見えるからなんですよ。途上国とはいえ、相手国の考えには耳を傾け、一緒に考えてみる。既成の「正解」を安易に持ち込むようなことはとりあえずしない。
欧米諸国による国際協力事業は、パッケージを持ち込むようなものが多いんです。エイズ対策はこう、水・衛生問題対策はこう、食料支援はこう、という、すでにデザインされて出来上がった事業計画を持ち込むことが多いように見えます。これが定石、正しい対応というもの用意してきて現地で指導し適用する形態です。さらにキリスト教系の援助団体ともなると、自分たちの価値観まで一緒に広めようとしたりして。自分たちの範に従えばよろし、という中華な空気が感じられることも少なくない。
そういう欧米式の援助も効果は高いです。特に即効性が高いことが多い。日本の支援がいつまでも始まらずだらだらしている間にバンッと資金と人とを投入して成果を上げる局面も何度も見ました。
それもよい。否定はしないし、ひとつのやり方だと思う。でも、相手国側の文化的文脈に合致していなくて、一時の成果だけで長続きしなかったり、時に傲慢に感じられたり、あるいはたとえば「民主化の支援」のような政治的に敏感な分野では原理的主義的な危うさも感じたりする。
世界の先進国、援助国による援助事業は、みんなそれぞれに個別の事情、特色を持っていますけど、日本のODAも例に違わず「要請主義」「ownership」で代表されるような独自色があります。上記で引用した識者の方々の日本、日本人の特徴についての評を、人の顔色ばっかりうかがって情けない、という風に見ることもできるでしょうが、好意的に解釈すれば、相手のことをよく考えている、ということです。日本の国際協力にも、その特徴がよく反映されているように思うのです。
まあ、実際の現場には、さらにさまざま事情があって、ここで書いたようにすっきり「日本はこう、欧米はこう」と割り切れないことも多いですけどね、実は。
「東京は好奇心の旺盛な街だ。世界のどの都市よりも他の文化から情報を集めることに熱心である。そしてそれらの情報をていねいに咀嚼して、世界に起こっていることをリアルに理解しようと勤勉な知性を働かせている都市でもある。自分たちの立っている場所が世界の中心ではない、そしてそもそも世界に中心などないのだという意識がその背後には働いているような気がする。だから自分たちの価値観で全てを推し量るのではなく、他国の文化の文脈に推理を働かせつつそれを理解しようとする。」(p.155)
もうひとつ、内田樹先生の「日本辺境論」。これもちょっと引いてみます。
「日本という国は建国の理念があって国が作られているのではありません。まずよその国がある。よその国との関係で自国の相対的位置がさだまる。よその国が示すヴィジョンを参照して、自分のヴィジョンを考える。」(p.38)
ちなみに、内田先生は日本人がこんな「辺境性」を持っていることを別に否定的に書いてらっしゃるわけじゃないです。ただ「そういうものだ」と書いておられる。また、この本では、梅棹忠夫氏の「文明の生態史観」を引用していて、それは以下のとおりです。
「日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは、現に保有している文化水準の客観的評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している。一種のかげのようなものだ。ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。」
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これね、海外で生活しているからかもしれないですけど、実感としてこのとおりなんですよね。有史以来、日本は中華であったことはない。常に辺境であり、辺境としての国民性をもって強かに生き残ってきたんですから、自ら世界に範を示すことが生来的には身に付いていない。別にいいとか悪いとかいう話じゃなくて、そう。
ミクロの現場では、「べき」論を以て雄弁に語る欧米人を前に、気後れすることも多いです。しかし、私の英語力の問題もありますけど、英語力が十分だったとしても、ああいう風には語らない、語れないことが多いなと思うこともしばしばなんです。常に、周りの考えを見て、自分の考えを検証している自分がいます。
* * *
日本の国際協力事業の現場に携わったことがあるんですが(今も携わっていますけど)、日本の国際協力の特徴に「要請主義」というのがあります。原則的に、相手国側から「要請」されたものに対して応えるという方針です。こちらから押し付けない。あくまで相手国側の考えを尊重して、「うちの国の開発にはこれが必要なので協力してください」と要請されたものについて協力を検討するという原則があります。
もちろん、「おたくの国の発展にはまずこういうところから手を付けるべきなんじゃないですか」と日本側から提案して、最終的に相手側に要請させるということも少なくないので、いつも「ご用聞き」だけをやっているわけじゃないですが、原則は「要請主義」です。また、これは「ownership」の強調という日本の支援の特徴も同時に説明しています。すなわち、日本はあくまで「支援」「協力」はするけれども、事業の主体はあなたの国なのですよ、プロジェクトはあなたの国が実施したいとして日本に支援を要請しているから日本は支援するだけですよ、という「当事者感覚」を強調することにつながってます。相手国側が自分で考えて必要だと思って要請してくる、その事業は相手国のものです。日本はそれを支援する。
押し付けないのです。相手国の言い分を聞く。相談に乗る。その上で助言する。開発途上国には自国の開発課題について取り組む政策や事業計画を策定する能力も覚束ないところも多くて、まともな要請を出すこともままならないという国も多いので、まず相談に乗る、ということも少なくないです。結果として、事業開始までにやたらに時間がかかることも少なくないですけど、事業計画の形成段階から、相談に乗って議論を導くところから援助が始まっていると見ると、時間がかかるのも仕方がないなという面もあるんですよね。
で、なぜいきなり日本の国際協力の話をしているかというと、この日本の国際協力の特色も、自分たちの価値観を絶対のものとしない、どこか別のところにヴィジョンがあって他所様のヴィジョンに照らして自分のアイデンティティを確認する、という日本人の特色が非常によく反映されているシステムに見えるからなんですよ。途上国とはいえ、相手国の考えには耳を傾け、一緒に考えてみる。既成の「正解」を安易に持ち込むようなことはとりあえずしない。
欧米諸国による国際協力事業は、パッケージを持ち込むようなものが多いんです。エイズ対策はこう、水・衛生問題対策はこう、食料支援はこう、という、すでにデザインされて出来上がった事業計画を持ち込むことが多いように見えます。これが定石、正しい対応というもの用意してきて現地で指導し適用する形態です。さらにキリスト教系の援助団体ともなると、自分たちの価値観まで一緒に広めようとしたりして。自分たちの範に従えばよろし、という中華な空気が感じられることも少なくない。
そういう欧米式の援助も効果は高いです。特に即効性が高いことが多い。日本の支援がいつまでも始まらずだらだらしている間にバンッと資金と人とを投入して成果を上げる局面も何度も見ました。
それもよい。否定はしないし、ひとつのやり方だと思う。でも、相手国側の文化的文脈に合致していなくて、一時の成果だけで長続きしなかったり、時に傲慢に感じられたり、あるいはたとえば「民主化の支援」のような政治的に敏感な分野では原理的主義的な危うさも感じたりする。
世界の先進国、援助国による援助事業は、みんなそれぞれに個別の事情、特色を持っていますけど、日本のODAも例に違わず「要請主義」「ownership」で代表されるような独自色があります。上記で引用した識者の方々の日本、日本人の特徴についての評を、人の顔色ばっかりうかがって情けない、という風に見ることもできるでしょうが、好意的に解釈すれば、相手のことをよく考えている、ということです。日本の国際協力にも、その特徴がよく反映されているように思うのです。
まあ、実際の現場には、さらにさまざま事情があって、ここで書いたようにすっきり「日本はこう、欧米はこう」と割り切れないことも多いですけどね、実は。
August 26, 2010
途上国共通の印象
実は南北アメリカ、オセアニアには行ったことないんですけど、割といろんな国に行っている方だと思います。旅行、仕事、あるいはストップオーバーなんかで、ざっと数えて30カ国くらい行ってるかな。
それでいつも思うのは、「途上国」共通の特徴ってなんだろうか、ということなんですよね。そりゃ、明らかに貧しければ途上国です。汚い池の水を汲んで飲料水にしてるとか、子どもが学校にも行かずゴミ箱漁ってるとか。そういう現象面の途上国ぶりを挙げるのは簡単なんですけど、気になるのは、どうしてそういう社会になっちゃうのか、何か共通のパターンがあるのだろうか、ということなんです。
何で、発展しないんだろう。
植民地支配時代からの歪んだ経済・社会構造が解消されない、自然環境が厳しい、政治が安定しない/腐敗している、競争力のある産業がない、そのどれも発展しない原因になりうる。
識字率が低い、衛生状態が悪い、食料難である、失業者が多い、医療機関がない。結果としてそんな状況に陥っており、その状況が世代を超えて受け継がれる悪循環を作っている。
どこで間違ったんだろう。
このブログでさらっとまとめられるような議論ではないし、このテーマだけで山ほど本や論文も出版されています。ただ、ただですね、途上国、先進国、まあその間の中進国を30カ国余り歩いてみて、発展していない国、あるいは少なからず豊かな人々がいても、どこか途上国風情から抜けきれない国には、なんとなく共通した印象があるように思うんですよね、私の主観に過ぎないかもしれないですけど。
「明日までにできます。」「こちらから後ほど電話をかけ直します。」「開会は午前9時です。」「これで問題ないはずです。」「たまたま今日は品切れです。」「不良品だったら交換します。」・・・この手の小さな約束が、およそ信用できないのが途上国っぽいと思うのです。全部、自分で責任を持って確認しないとうまくいかない。思い出してみると、ダメな国はみんなこんな感じだったような。できると言ったことができない、やると言ったことをやらない。どんなに見かけ上は豊かでも、曖昧な言葉なので使いたくはないんだけど「民度」が低いと、途上国っぽい印象が出てしまう。きっと彼ら彼女らはウソをつく気はないんでしょうけど、結果的に、日本人の私の常識からすればウソと同じことになってしまってます。もう、慣れましたけどね。
これが国が発展しない理由です、とは言えない。でも、国が発展しなかった結果こういう人間がいっぱいできました、とも言えない。要は、発展できない悪循環の輪の鎖の一部なので、理由でもあり、同時に結果でもあるんでしょう。
さて、とはいっても、何の答えにもなっていない。
どこで間違ったんだろう。何で発展しないんだろう。現に今、途上国である社会の特徴的な印象は共通なものがありますって言ったって、それは、はあそうですか、というだけの話であって、発展しない(あるいは少なくとも今までは発展していなかった)原因を説明したことにはならない。ましてや、解決策も提示できない。
まあね、明確な説明と、すっきりした回答がある問題ではないことは確か。強いて言えば構造の問題であり、システムの問題なんだよね。
少なくともじゃんじゃん援助をすれば解決するというような問題ではないよね。ひとりひとりの善意は大切だとは思うけど、篤志家の慈善活動もその成果は問題の全体像から見れば些細なものだったりする。
* * *
私個人としては、結局のところは、途上国の人々にも金儲けをしてもらうことしかない、と思うのです。小さくてもいいから、ビジネスを、経済活動を盛り上げるしかない。社会や個人の規律-decipline-もそこから生まれるんじゃないかと。国際援助も必要だけど、できることには限界があって、それだけでは問題が片付かないのは確かだと思うよ。
要は「経済」なんじゃないかと。
まあ、原因はそれだけではないし、「経済」のために援助も必要なんだけどね。「経済協力」なんて言葉もあるくらいでさ。
それでいつも思うのは、「途上国」共通の特徴ってなんだろうか、ということなんですよね。そりゃ、明らかに貧しければ途上国です。汚い池の水を汲んで飲料水にしてるとか、子どもが学校にも行かずゴミ箱漁ってるとか。そういう現象面の途上国ぶりを挙げるのは簡単なんですけど、気になるのは、どうしてそういう社会になっちゃうのか、何か共通のパターンがあるのだろうか、ということなんです。
何で、発展しないんだろう。
植民地支配時代からの歪んだ経済・社会構造が解消されない、自然環境が厳しい、政治が安定しない/腐敗している、競争力のある産業がない、そのどれも発展しない原因になりうる。
識字率が低い、衛生状態が悪い、食料難である、失業者が多い、医療機関がない。結果としてそんな状況に陥っており、その状況が世代を超えて受け継がれる悪循環を作っている。
どこで間違ったんだろう。
このブログでさらっとまとめられるような議論ではないし、このテーマだけで山ほど本や論文も出版されています。ただ、ただですね、途上国、先進国、まあその間の中進国を30カ国余り歩いてみて、発展していない国、あるいは少なからず豊かな人々がいても、どこか途上国風情から抜けきれない国には、なんとなく共通した印象があるように思うんですよね、私の主観に過ぎないかもしれないですけど。
「明日までにできます。」「こちらから後ほど電話をかけ直します。」「開会は午前9時です。」「これで問題ないはずです。」「たまたま今日は品切れです。」「不良品だったら交換します。」・・・この手の小さな約束が、およそ信用できないのが途上国っぽいと思うのです。全部、自分で責任を持って確認しないとうまくいかない。思い出してみると、ダメな国はみんなこんな感じだったような。できると言ったことができない、やると言ったことをやらない。どんなに見かけ上は豊かでも、曖昧な言葉なので使いたくはないんだけど「民度」が低いと、途上国っぽい印象が出てしまう。きっと彼ら彼女らはウソをつく気はないんでしょうけど、結果的に、日本人の私の常識からすればウソと同じことになってしまってます。もう、慣れましたけどね。
これが国が発展しない理由です、とは言えない。でも、国が発展しなかった結果こういう人間がいっぱいできました、とも言えない。要は、発展できない悪循環の輪の鎖の一部なので、理由でもあり、同時に結果でもあるんでしょう。
さて、とはいっても、何の答えにもなっていない。
どこで間違ったんだろう。何で発展しないんだろう。現に今、途上国である社会の特徴的な印象は共通なものがありますって言ったって、それは、はあそうですか、というだけの話であって、発展しない(あるいは少なくとも今までは発展していなかった)原因を説明したことにはならない。ましてや、解決策も提示できない。
まあね、明確な説明と、すっきりした回答がある問題ではないことは確か。強いて言えば構造の問題であり、システムの問題なんだよね。
少なくともじゃんじゃん援助をすれば解決するというような問題ではないよね。ひとりひとりの善意は大切だとは思うけど、篤志家の慈善活動もその成果は問題の全体像から見れば些細なものだったりする。
* * *
私個人としては、結局のところは、途上国の人々にも金儲けをしてもらうことしかない、と思うのです。小さくてもいいから、ビジネスを、経済活動を盛り上げるしかない。社会や個人の規律-decipline-もそこから生まれるんじゃないかと。国際援助も必要だけど、できることには限界があって、それだけでは問題が片付かないのは確かだと思うよ。
要は「経済」なんじゃないかと。
まあ、原因はそれだけではないし、「経済」のために援助も必要なんだけどね。「経済協力」なんて言葉もあるくらいでさ。
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